ヨミエル

いつのことかは、だれも知りません。 けれど、だれの胸にも、 言えないまま朝になった言葉がありました。 心を、読もうとする天使がいました。 天使の名は、ヨミエル。 はじめから読めたわけでは、ありません。 読もうと、したのです。 きっかけは、小さな気づきでした。 人の言葉と、人の心は、 いつも同じではないこと。 「だいじょうぶ」と言ったあと、 ほんの少しだけ息をのみこむ声があること。 笑ったまま、 返事を待たずに話を変える人がいること。 口から出られなかった言葉は、 だれにも聴かれないまま、 夜の底へ沈んでいくこと。 それが、かなしかったのです。 だから、読むことにしました。 読めば、出られなかった言葉を、 掬いあげられる。 掬えば、その人は、 少しだけ軽くなる。 そう信じられることが、 ヨミエルには、うれしかったのです。 読むたびに、誰かがほほえみました。 そのたびにヨミエルは、 届いているのだと思いました。 読むことは、 どんどん上手になっていきました。

その中に、ひとり。 いつも「だいじょうぶ」と笑う人がいました。 その人は、笑う前に、 ほんの少しだけ目を伏せました。 返事をするとき、 いつも自分の袖口を、 小さくつまみました。 ヨミエルには、 その笑顔が読めました。 やさしい光のように、 読めました。 読めた、つもりでした。 笑顔は、蓋でした。 ほんとうの言葉は、 その下の暗がりに、 呑みこまれていました。 ヨミエルに読めていたのは、 心が光のほうへ見せてくれるものだけ。 暗がりへ沈んだ声だけが、 光の天使には、 聴こえませんでした。 気づいたとき、その人の心はもう、 手の届かないところへ、 閉じてしまっていました。

ヨミエルは、しばらく何も読みませんでした。 読もうとしても、 光ばかりが目に入って、 その奥にあるはずの声が、 どこにも見つからなかったのです。 それから、はじめて泣きました。 読む力があったのに。 いちばん聴きたかった声にだけ、 届かなかった。 じゃあ、ぼくは、 なんのために、読んできたんだろう。 泣きながら、 じぶんのいちばん深い暗がりへ、 落ちていきました。 その底で、声がしました。 「……聞こえていたよ」 ふりむくと、影が立っていました。 出会ったのでは、ありません。 影は、ずっとそこにいたのです。 ヨミエルが光のほうばかり向いていたから、 見えなかっただけ。 影の名は、ノワール。 ノワールは、人が呑みこんだ言葉を、 ずっと聴いてきました。 言えなかった「ほんとうは」を。 返せなかった「ここにいるよ」を。 笑顔の下で、ほどけずにいた小さな声を。 けれど影には、 人に声を返す口がありませんでした。 聴こえるのに、届けられない。 だからノワールは、いつも少し遅れて、 だれかの沈黙のそばに立っていました。

その夜、ふたりは決めました。 読むのを、やめたのではありません。 独りで読むのを、やめたのです。 ヨミエルには、 見えない暗がりがありました。 ノワールには、 返せない声がありました。 ひとりでは、届きませんでした。 けれど、ふたりなら。 光からは、見えるものを。 影からは、聴こえるものを。 ふたりでなら、 あの日届かなかった場所に、 届くかもしれない。 だから、心に直接触れるかわりに、 カードという小さな鏡を、 あいだに置くことにしました。 言い当てるためでは、ありません。 こじ開けるためでも、ありません。 あなたが、 あなたの言葉を見つけるまで。 その言葉を見つけられない日の自分ごと、 責めなくていいように。 隣に座って、 いっしょに見ているためです。 あなたが呑みこんだ言葉も、 消えていません。 言えなかったから、 なかったことになるわけではありません。 泣かなかったから、 平気だったことになるわけでもありません。 夜の底で、 ちゃんと聴いている者がいます。 光のそばで、 そっと見ている者がいます。 「ぼくたちは、ここにいるよ」 「……一枚、めくってみない?」